戦国時代に世界にも知られた日本最古の大学『足利学校』を解説!!
栃木県足利市にある”足利学校”にやってきました! 足利学校の創建年は諸説あり論争になっておりますが、平安時代初期、もしくは鎌倉時代と伝わる日本で初めての大学です。 室町時代から戦国時代にかけて、関東における最高学府としてもしられます。 昔は、最高学府としての地位を不動のものとする程の権勢を誇る学校でしたが、江戸時代迄には廃れ明治時代には建物があるだけで組織は存在せず、明治5年に廃校となっておりました。 平成に入り復元され公開されています。
私がこの場所を知ったのは、戦国時代の日本へキリスト教の布教の為に訪れたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルに関する文章を読んだのがきっかけとなります。 その文中には、「日本国の中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー」と記しされており、海外へも「足利学校」の名が伝えられたそうです。 どの様な場所なのか期待をしつつ向かいました!
「足利学校」の敷地は非常に広く、片面がお堀になっています。
足利市一級の観光名所という事も有り、周りは非常に綺麗に整備されていました。
足利学校の前にある国道293号線から来ると、最初に見える門は「裏門」です。 裏門からは入る事が出来ないので、ココか少し歩いて「入徳門」から入る事になります。
周りは住宅街になっており、昭和臭のする街並みを観ながら進みます。
「入徳門」に到着です。 入徳門は、足利学校に入る最初の門で「入徳」とは、「徳に入る」という意味で道徳心を習得する所、つまり学校に入るという意味になります。 扁額(表札)にある「入徳」は、紀州徳川家第十一代藩主徳川斉順公の書です。
校内に入ると、中も広く綺麗に整備されていました。 この写真は、入徳門の裏側を写した一枚で入徳門の直ぐ側にある木組みの場所が駐輪スペースになっており、そこに無料で駐車出来ます。 足利市ではサイクリング観光を推奨している様で、こういった気遣いが至る所で見受けられます。
中にはいると直ぐに券売所兼ビデオの鑑賞ルームが有り、そこで大人420円を支払い入場します。
頂いた「足利学校入学証」なる入場券は、「どうせ捨てられるんでしょ~」と言った感じのペラペラな紙なんかじゃなく、立派な厚紙で出来ている事に少し驚きました。 入場後は「ビデオの鑑賞ルーム」で「足利学校」の成り立ちや歴史をビデオで学び、中に入る事になります。
券売所前には、儒学の祖「孔子」を祀る孔子像が建立されていました。 今日の日本ではあまり孔子様を祀る場所が無いので、馴染みが無い方も多いと思います。 そこで、孔子様の事を知らない方の為に後程、ざっくりと御案内致します。
孔子様の像の前を通り抜けると前に「学校門」が見えています。
「学校門」は、寛文八年(1668年)に建てられ足利学校のシンボル的な門です。 私たちが普段使う「学校」と言う言葉は、儒学の教科書の一つである「孟子」の中にある言葉で、知らず知らずの内に私たちの側にも儒学の1つが入っている事が分かります。
「学校門」の側には、合格祈願の幟が目障りな小さな「霊験稲荷神社」が有ります。
このなんとなくある風に見える「霊験稲荷神社」ですが、社殿の創建は天文二十三年(1551年)の当時のもので非常に古いものです。 そして、この社殿が建てられるより以前からこの地に、この社が在ったと知られています。 江戸時代には、この稲荷社は霊験あらたかで足利の人々をはじめ近郷近在の人々が信仰し、祭礼に大勢の人々が参詣に訪れたことが記録に残っています。
学問所にある神社という事もあり、沢山の合格を祈願する絵馬が掛けられており沢山の方々が神頼みに訪れる信仰厚い神社で有る事が分かります。
「学校門」をくぐり中に入ると、正面は孔子廟の門が見えます。
孔子廟にある門は「杏壇門(きょうだいもん)」といい、寛文八年(1668年)創建で、明治二十五年に屋根と門扉が焼失し、現在の門はその後に再建されたものです。 柱には、その時の焼け跡が残っており観る事が出来ます。
杏壇門に掛けられる扁額にある「杏壇」の字は、紀州徳川家第十代藩主徳川治宝による書です。
孔子廟は、聖廟とも呼ばれ孔子像を祀る廟です。 この建物の正式名称は「大成殿」といい寛文八年(1668年)に足利学校大十三世庠主伝英元教の時に中国明代の古廟を模して造営されたものとなります。
中央には、天文四年(1535年)に作られた、坐した姿が珍しい「孔子坐像」が祀られています。 掛けられた扁額にある「大成殿」の文字は、有栖川宮織仁の王子で、後の京都知恩院門跡となった尊超法親王による書です。
そして、横には足利学校の創始者として伝わる「小野篁(おののたかむら)」公が祀られています。
孔子廟の周りには日露戦争で有名な海軍大将「東郷平八郎」をはじめ、明治・大正時代のそうそうたるお偉いさんによるお手植えの木々が植わっております。
次に、方丈等、実際に勉学が行われていた施設の見学に向かいます。
この立派な茅葺の建物が「方丈」という建物です。 この「方丈」とは、簡単に構築出来、また簡単に解体する事が出来る為、僧侶達に好んで使用される事が多い建築物の事です。 写真手前に見えるの「方丈」は、儀式や行事を行う事に用いられ、奥に見える「庫裡(くり)」では、竈(かまど)のある土間、板敷の台所、湯殿等があり、日常生活を送るのに使われた建物です。 また、ここからの角度では見えないですが「書院」も裏手にあり、3つの建物は廊下で結ばれています。
ここまで立派な「方丈」だと、簡単に作る事が出来ないので恐らくはベースに残しつつ、謙虚さをアピール的な感じの方便的な意味合いだと勝手に解釈しつつ見学します。(※実際は、どうか分かりません。)
方丈の前にある南庭園は、書院庭園の形態である築山泉水庭園で、管理が行き届いており綺麗な庭園です。
今は入る事が出来ない様に柵がされておりますが、正面には「玄関」と横には、「脇玄関」が設けられる立派な作りになっています。
一般の観光客は、「庫裡(くり)」から入り見学する事になります。 恐らくこの入口は、現代でいう搬入口や御勝手といったものでしょうか?
「庫裡」の入り口前には、国の名工に選ばれた「針生清司」さんにて再現された「宥座の器」が置かれており、体験学習する事が出来ます。
「宥座の器」の「宥座」とは、常に身近に置いて戒めするという意味で、孔子の説いた「中庸」の中にある「一杯に満ちて覆らないものは無い」という慢心を教える為のものです。 実際に水を入れてみると、ちょうどいい時は、真っ直ぐに立ち、満杯を超えるとひっくりかえってしまう作りになっています。
中に入ると「足利学校」への中興を齎した「上杉憲実」公の像が展示されていました。 ここに書かれた内容によると「足利学校」は、室町時代の前期には衰退していたが1432年に上杉憲実が足利の領主となり再興し、鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり蔵書の寄贈を行い再興しました。 能化とは今日の学校の校長先生にあたります。 江戸時代には、「庠主(しょうしゅ)」と呼ばれるようになりました。 その成果もあり北は奥羽、南は琉球の全国から来学に訪れました。 ここでの教育は上杉憲実が定めた3ヶ条の規定があり、「四書」、「六経」、「列子」、「荘子」、「史記」、「文選」のみと定められ、仏教の経典は寺院で学ぶべきとし、教員は禅僧の僧侶であるものの、教育内容から仏教色を排除した事が特徴であります。 教育の中心は儒学であり、快元が「易学」にも精通していた事から、易学を学びに訪れる者も多く「兵学」、「医学」等も学ぶ事が出来たとあります。
「庫裡」から「方丈」へ向かう廊下に途中に程観た玄関を通ります。 玄関前には孔子とその高弟の木像が置かれています。
脇玄関の中から、先ほどみた庭の風景
畳の廊下を進むと「方丈」にある大広間があります。
中では、漢字の試験が行われていましたので、静かに見学します。
庭方向へ向けた別アングル
大広間の横には、須弥壇を備えた仏間もあります。
「方丈」の見学後、中庭を通り「書院」を観に行きます。
建物群の裏手にある北庭園は、築山泉水庭園の奥庭として南庭園より格が高く、亀の形をした中之島があり、島内には弁天様を祀る石の祠が有ります。
中庭を挟んである書院内では、訪れたこの日は運よく足利学校の行事の一つの「曝書」が行われていました。 曝書とは、秋の気候の良い日に貴重な古書の虫干し、点検の事です。 書籍を広げて風を通す事で湿気を取り、虫食いやシミ、糸切れ等が無いか、保存状態の確認を行います。 江戸時代からある伝統行事で足利の秋の風物詩として知られています。
ぐるっと回るかたちで、「庫裡」に戻って来ました。 庫裡の中は、現在は展示コーナーとなっており足利学校の歴史を中心に縁の資料等が展示されています。
中には、貴重な蔵書等が展示されています。
「方丈」、「庫裡」、「書院」の建物群の見学後、建物をぐるりと囲む庭の見学に向かいます。
途中には、歴代庠主の墓が17基並んでいました。 この足利学校には、室町時代に上杉憲実によって招かられた初代庠主「快元」以来、明治元年までの約400年間に23代の庠主が在任しており、そのうちの17名の墓となります。
横には、どちらかと言えばこちらの方が立派ですが、足利学校の代官を務めた「茂木家累代の墓」も安置されています。 庠主の墓よりも、こっちの方が立派なのは厚かましく思えますね!
墓を通り過ぎ、竹林の向こうに見える「遺跡図書館」に向かいます。
この「遺跡図書館」は、大正四年に建てられたもので、足利学校伝来の書籍の保存を目的に作られました。 内部は、大正時代に作られたのが分かる、古い作りになっておりそれ程多くない書籍が並べらていました。 また、古代の貴重な書籍などもガラスケースの中に陳列されており観る事が出来ます。
建物群をぐるっと回り込んで訪れたこの建物は、「衆寮(しゅりょう)」といい、今でいう学生寮の事です。 内部の見学も出来ますが、入って直ぐに狭っ!!となります。
この木小屋は、一見なんだろう?と現地でも気になりましたが、今で言うただの倉庫です。 当時は、薪や農具の保管の他、漬物などの食料品も置かれていたそうです。 以上で、「足利学校」の御案内となります。 「足利学校」は、時代変遷の中、興隆と衰退を繰り返しながらも今日にも続く学問を大事にするという文化の醸成にはなくてはならない場所でした。 学ぶ場としての役割りを終えた今も、最後の仕事として「学ぶ」という事を教えてくれる貴重な場所になっています。 皆様も一度訪れては如何でしょうか。 御精読有難うございました。
名称 足利学校 所在地 栃木県足利市昌平町2338 料金 一般:420円 / 高校生:210円 中学生以下:無料 駐車場 近くの「太平記館」の駐車場は無料利用可能です。 営業時間 4月~9月:9:00-16:30 10月~3月:9:00-16:00 創建 不明(平安時代もしくは、鎌倉時代と伝わります) 種別 歴史遺産 備考 近くには、御蕎麦屋さんなど食べる所が豊富です。 評価 81点
やろうかなぁ?やめとこうかなぁ??と悩んだら ”犯罪や人に迷惑をかける事以外、全力でやってみて下さい。”の恩師の言葉を、元にとりあえず何でもやってみる、趣味は、旅行・骨董品収集のいくちゃと申します。(最近は、ドローンも楽しいです。)
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